当山の開山は覚阿湛然和尚で、開基は南部11代伊予守信長公であります。 正慶2年(1333)、兄の南部10代右馬頭茂時公が、鎌倉で北条氏滅亡の際、高時に殉じ割腹。 遺臣と共に藤沢の時宗総本山清浄光寺(通称遊行寺)に埋葬されました。現在も遊行寺に墓石があります。 信長公は兄茂時公の菩提の為、三戸(青森県)に教浄寺を建立いたしました。 後、南部27代利直公が、盛岡に城を移されるに当り、慶長17年(1612)、現在の地、北山に教浄寺を移転されました。
時宗の開祖一遍上人は衆生済度(人々を迷いから救うこと)念仏勧進(南無阿弥陀仏の念仏をすすめること)のために その生涯を遊行(修行と説法のため諸方を巡り歩くこと)に終始されました。 その足跡は北は岩手県、南は鹿児島県に至る日本全国に及んでいます。本山は神奈川県藤沢市、清浄光寺(しょうじょうこうじ)。 一遍上人以来代々の上人が全国を遊行するところから遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれています。
「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代(初代盛岡南部藩主)南部信直公は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めました。 城から仰ぐ岩手山・早池峰山・姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺(臨済宗妙心寺派)」を建立しました。 京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、聖寿寺、東禅寺、法泉寺(以上臨済宗)、報恩寺(曹洞宗)、教浄寺(時宗)を特に「盛岡五山」と定めました。
当山は南部家の菩提寺であることから、寺領200石を与えられ、手厚い庇護を受けました。 南部家は文化5年(1808)には20万石という大大名となり、北辺警備の重任を担い、 文化10年に南部藩を盛岡藩と改め明治維新に廃藩置県となり、伯爵を与えられ、第二次世界大戦後爵位は廃止されました。 南部の殿様が御参詣の時におはいりになった特別のお座敷が「お成りの間」という名前で今に残っています。
賢治が北山、名須川町の寺々に下宿していたことは有名ですが、当山もその一つでした。
盛岡中学(現盛岡第一高校)卒業後、病気治療や家業の手伝いをしていた賢治は、盛岡高等農林(現岩手大学農学部)受験の為、
大正4年1~4月、教浄寺本堂の片隅で猛勉強の末、見事首席で入学し、特待生にまでなりました。
それにあやかって、おあみださん御縁日には合格祈願の絵馬を吊るしたり、こっそり手を合わせる受験生が大勢いるとか。
賢治が教浄寺を詠んだ詩が残っています。
僧の妻面膨れたる 飯盛りし仏器さゝげくる。
(雪やみて朝日は青く、 かうかうと僧は看経。)
寄進札そゞろに詠みて、 僧の妻庫裡にしりぞく。
(いまはとて異の銅鼓うち、 晨光はみどりとかはる。)
(関連リンク) 教浄寺と宮沢賢治のゆかり 寄稿 吉見正信
山屋他人海軍大将は、雅子皇太子妃の母方曽祖父にあたります。山屋家の菩提寺は藩政時代より教浄寺です。
他人大将とその父勝寿の墓は東京都麻布長谷寺にありました。
平成15年4月19日・山屋家の家督を継いでおられる登氏はじめとする枝栄会(しえいかい)の尽力で、
長谷寺に眠るお骨を教浄寺に移し、また他人大将の功績を後年に残す為、平成15年に顕彰碑が建立されました。
※枝栄会…他人大将の孫たちで結成.雅子皇太穿妃.の御両親であられる小和田恒・優美子御夫妻も名を連ねている。